後書き
長女さん 多大なお餞別有難う。
J氏は思い切って最新式のデジカメを買いました。
次女さん、そしてその夫君のG君 前もっての現地調査
その上での詳細なアドバイス、有難う。
旅行かばんも貸してくれて有難う。
病気でめんどうのかかる、プクを預かってくれて有難う。
皆さんのお陰で、風うさぎは初めての海外旅行をさせて
頂きました。
J氏は学生時代、アメリカ大陸を
一人旅して以来の海外でしたが
とても、頼りになりました。
有難う。
何処に行きたい?と聞かれて
地球の裏側まで飛んでいく勇気が
無く、アジア圏で一番憧れていた
アンコールワットと学生時代からずっと思い入れのあった
ベトナムを選びました。
雨期にあたる、ベトナムの車窓からは沼に咲く蓮の花が、
あちこちに見受けられました。
静かでのんびりした郊外の風景を抜けて、
市内に入っていくと道いっぱいに埋め尽くされた
オートバイにびっくりでした。
川の流れと言えば空を映して青いものと
思っていましたが、
何処をどう見ても、だくだくとして茶色の
ミト-の船着場やメコン川には驚きました。
小船に色とりどりの果物を積んで
美しい娘さんが果物売りをしているという
私のメコンに対するイメージはもろくも崩れ去りました。
今のベトナムは昭和30年代の東京のようだと
J氏は言います。
戦禍から立ち上がって復興しょうとするエネルギーに
圧倒されます。
ホーチミン(旧サイゴン)のドンコイ通りでは
多少の得て不得手はあっても、英語はもとより
フランス語、中国語、韓国語、日本語が飛び交って
お客のゲットに余念がありません。
でも、何故か私たちは彼らから『こんにちわ-何欲しい」
としか呼びかけられないのです。
たまには、ニイハオ、とか呼びかけられても良いのにな。
顔はそっくりなのだから。
彼らは私たちの何処に日本を嗅ぎとっているのでしょう。
私の学生時代、まだ、東京の立川に
アメリカの軍事基地があり
そこにベトナムで死んだ
アメリカ兵士が次々運び込まれ
ジュラルミンの棺に入れられて
本国に送り帰えされていました。
立川生まれの友は立川から
米軍基地を無くす事に青春をかけていました。
そんな時代でした。
今は、ベトナムの若い世代は戦争を知らない子供たちが
育っているようです。
そう言えば、私たちも若いとき戦争を知らない子供たち♪
とかいわれましたっけ?
アンコールワット、アンコールトムでは
雨期にもかかわらず、良い日和に恵まれ
太陽に焼き焦がされんばかりの日々でした。
暑さと慣れないゴツゴツの岩の登り下りで
足はパンパンにむくみ上がってしまいましたが
いま、憧れの遺跡を歩いているのだと思うと
アンコールワット第3回廊の急な石段も
なんのそのです。
ただ、何処に行っても物売りの子供たちに囲まれるのは
困りものでした。
油断でしたが、こうした子供たちに対しての心構えが
何も出来ていなかったからです。
基本的には教育は無料で受けられるとの事ですが
親の手伝いに子供たちは物売りをして働かなければ
ならないようです。
「こうした子供たちになにがしかのお金を落としていっても
良いのではないかと私は思うのよ。」
と妙齢のご婦人が話し掛けてこられたが、
確かに。
そこで、よく編みこまれたミサンガと旅の写真を買わせて
もらったが、でもそんな事で決着のつく問題では無いのだろう。
旅人のトイレは水洗で
綺麗な花まで飾ってあるが、
(最も、これでも日本人には油断の出来ない
トイレだ。)
ジャングルを切り開いた真っ直ぐな通りに面して並ぶ
カンボジアの田舎の民家は貧しく電気も水道も通って
なく、トイレも無いという事だ。
はしごをかけた小さな家と牛と鳥と泥地とジャングルの形状そのままに
雨水をためて作っている稲作とに、息を呑んだまま私は
カメラのシャッターを切るのを忘れていた。
J氏のカメラにもこの間の記録が無い。
物を買っても買わなくても、このままでは彼らと
一片の友情すら共有は出来ないのだと
旅人の私は思う。
ただ、南国の太陽に炙り出された見知らぬ自分に
唖然とする。
考えなければならない事を山ほど抱えての帰国である。
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